桜坂(一)
今日も空は快晴。
その特有の伸びやかな青を頭上いっぱいに広げていた。
ずっと雲一つない空を見つめていると、無意識に息を大きく吸い込んでしまう。
そうして、ふわふわと浮いたように落ち着かない心臓に沢山の空気を送り込むのだ。
深呼吸をしたところで、胸が落ち着く訳もないのだけれど。
プルルルル……
勢いの良い信号音と共に、電車がホームに入ってくる。
凄まじいスピードで今まで駆け巡っていた鉄の機体は、慣れない風をはらんで緩やかに停車した。
途端、あふれかえる人、人、人。
誰も彼もが道を急ぐように歩いていく。
いつも通りの、朝の風景。
いつも通りの時間に家を出て、いつも通りの時刻の電車に乗った。
プルルルルルル……
ついた時より眺めの信号音が鳴り響き、電車が動き出す。
流れる景色は、いつも通り。
地形に合わせ、がたん、ごとん、と震える機体もいつも通り。
そして、つい、と反対のドアの方を振り返る。
………いつも通りの光景に、心臓が高鳴った。
(今日も……いる)
丁度背中合わせになるように、彼が立っていた。
朝のこの時間にこの電車に乗ると、必ずと言っていいほど、彼は電車に乗っている。
いつからだったのだろう、ある日の朝、一度この電車に乗って来て、それ以来一日も空けずに見かけるようになった。
最初の内は、自転車通学の生徒が雨の日のみ電車を利用しているのだろう、と思っていたのだが。
ふと、気付かれないように彼を盗み見る。
男性の中で見ても、高いはずであろう、その長身。
触るとふわふわと猫毛のように柔らかそうな髪の毛。瞳は伏せられていて……
不思議と、彼だけが日常の風景で光を帯びて見えた。
名前も知らなければ、学校も知らない。
制服を着ているからきっと、同じ高校生だとは思うのだが……
がたん、ごとん。
何度目かの駅で、電車はアナウンスと共に止まる。
あと2つ、駅を過ぎれば目的の駅に着く。
彼はどこまで行くのだろう。電車から降りるところを見たことがないので、当然、どこで降りているかもわからない。
彼は、窓の外の景色を見るでもなく、静かに目を伏せている。
どこか清廉さを漂わせる横顔に、無意識にも見惚れてしまう。
ふと、電車が大きく揺れる。いきなりの震動に思わず目の前の手摺りを掴んだ。
その時、窓際の彼が視線を上げたのだが、反射的に目を反らしてしまった。
可居間見えた彼の目がこちらをとらえたような気がしたからだ。
(…………気にしすぎてる)
ふるふると首を振り、彼のことを頭の中から払おうとする。
きっと、相手からしても迷惑なはずだ。
見ず知らずの女子にじろじろと見られて嬉しいはずが無い。
熱く火照る顔を隠すように彼に背を向けた。
だから、慌てるようにたたずんでいた……
…千鶴は、きらりと光る彼の目が、千鶴をとらえていたことに気が付かなかった。
***
「……ねぇ、千鶴ちゃん!」
「………」
「………千鶴ちゃんってばっ!」
「……あっ!ごめん!」
大きく肩を叩かれ、ようやく話し掛けられているということに気が付く。
目の前には、千鶴を叩いた張本人である友人が胸を張って、仁王立ちしていた。
「どうしたの、お千ちゃん」
何か言いたげに千鶴を見つめるお千が、何だか怖くて無理やり話の流れをそらしてみる。
しかし、そんな千鶴の考えもお見通しなのか、千は大きくため息をつき……
「どうしたも何も……千鶴ちゃんこそどうしたの?」
小さく首を傾げながら、千が千鶴の手元を指差す。
千鶴も千に促されるように自分の手元に視線を落とす。
「…あ!こ、零れてる…!」
初めて自分の状態を認識した風情で千鶴が悲鳴めいた声をあげる。
千鶴の手元には、大量のホイップクリーム。
ボウルの中で掻き混ぜていたはずのクリームはものの見事に膨らみ、千鶴の手にまで飛び散る、という悲惨な状況に至っていた。
「…ご、ごめんなさい…」
「大丈夫?千鶴ちゃん…
はい、おてふきっ」
千が心配そうに眉を寄せながらも、素早く手拭き用の布巾を千鶴に手渡す。
「ごめんね……ホイップクリーム無駄にしちゃった」
「いいのよ、それくらい。………でも珍しいよね、千鶴ちゃんがぼーっとしてるなんて」
何かあった?と顔を覗きこみながら尋ねてくる千は、普段から善くも悪くも鋭いと思う。
千鶴は何と言っていいものか分からず、一度黙り込む。
そして、千の顔をぱちぱちと瞬きをしながら見つめ……
「お千ちゃんは………気になる人なんて、いる?」
蚊の鳴くような千鶴の問いに、今度は千が大きな目をくるりと動かした。
「…………気になる人?」
「うん、そう」
何か鳩が豆鉄砲でもくらったかのように尋ねる千に、千鶴は大きく頷いて見せる。
「き、気になる人……?」
困惑顔で千鶴に千が聞き返す。
千鶴としては、おそらく経験豊富な千のことだ、すぐに返答なと返ってくるだろうと踏んでいたのだが。
千はしばし考え込む素振りを見せ………悪戯がみつかった子供のように、にい、と頬を弛ませた。
「…はーん……そういうことかぁ……」
千鶴ちゃんは好きな人ができたのね、としたり顔で首を傾ける。
まぁ………あながち間違っているとは言いきれないけど……
「そ、そんなのじゃないの」
「またまたー、私相手に何も隠す必要はないのよ」
そう言って、千が千鶴の肩をちょんちょんと指で突き回す。
優しく突かれるので、なんだかこそばゆい。
「もうっ、真面目に聞いてよ、お千ちゃんっ」
「聞いてる聞いてるー。まったく、千鶴ちゃんはかわいいんだからー!」
からかわれているのは明白なのだが、これは千なりの愛情表現なのだとわかっている千鶴は一緒に微笑んだ。
何が楽しいのか、二人は騒いでつつきあっていた。
本来の目的である調理実習の作業の手が完全に止まり、家庭科教師から注意を受けたのは、それから少し先のことだった。
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